前代未聞のウィルス感染に翻弄される中、ずっと温めていた計画を実行することにしました。
日本列島3000キロを歩いて旅するチャレンジです。
会社を辞めた理由もそこにあります。
3月初めの退職と同時に出発するつもりで準備をしてきましが、ドンピシャのタイミングで新型コロナウィルスの脅威が浮上。
すでにザックのパッキングを終え、飛行機のチケットも発券済のなかで、さんざん悩んで出発を1ヵ月延期することにしました。
しかし、4月中旬の再出発はさらに状況が悪化し、緊急事態宣言が出され、二度目の出発見送りとなりました。
5月に緊急事態宣言が解除され、学校や職場に人々が戻りつつある今も自粛ムードはまだ続いていますが、チャレンジをどうにもあきらめきれず、トレーニングの意味も含めて、その間は自宅がある岐阜県内の中山道を歩いてきました。
当初の計画であった4か月間をかけての最南端の鹿児島佐多岬から最北端の北海道宗谷岬までの“一筆書き”のチャレンジは諦めることにしましたが、コロナの状況を確認しながら自宅から東西に、小刻みに足跡を伸ばしていくことに切り替えました。
今月19日からは隣県への移動を含めて観光への緩和がされることになりそうですが、コロナの感染リスクが減ったわけではありません。
屁理屈かもしれませんが、人口密度が低い地方をテントを担いで旅するほうがはるかに安全であるがゆえ、人との接触はできるだけ避けて感染予防を心がけることを肝に銘じ、日本列島縦断のチャレンジを実行することにしました。
さて、これからの数か月間、いやもっと長くかな? 当ブログの内容は『日本縦断徒歩の旅』のレポートが多くなりますが、どうぞ気長にお付き合いくださるようお願いします。
…と、大風呂敷を広げましたが、途中であっけなくリタイヤするかもしれません(笑)。
もっとも、再び緊急事態宣言や外出禁止令が出れば、自治体の指示に従わざるをえないし…。
ともあれ、無事に旅が続けられることを祈るばかりです。
~夢を現実にしたい 日本列島を歩いて縦断することは、ずっと昔からの夢だったような気がします。
冒険にあこがれた少年のころか、それとも登山を始めた学生のころか。
人力で、それも自分の足で、南北に長い日本列島に一本の線を引き、足跡を残したいと思っていました。
思い返すと、この突拍子もなく、傍から見れば呆れた(人が言うには)チャレンジをことあるごとに熱く語ってきました。
登山に夢中になっていたころは、ぶなの森に囲まれた渓谷で、焚火を囲んで酒を酌み交わしながら。
吹雪がゴーゴーと唸りを上げる、雪稜に張ったテントの中で震えながら…山の仲間たちに。
そして、会社の同僚には、飲み会や定年を迎えた送別会で。
大風呂敷を広げることで、自分自身にプレッシャーをかけ、夢を現実のものに近づけてきました。
60才で契約社員として再雇用されたあと、62才で会社を辞め、年金が支給される63才までの一年間を好きなことに費やすという、これが当初の計画でした。
日本縦断もこの中に入っていたし、離島めぐりも、カミさんとの海外旅行も並べていました。
それを根底から覆す出来事が60才で患った病気です。
膵神経内分泌腫瘍(P-NET)という10万人あたり数人しかいない希少がんに罹患し、四か月間の療養生活を送ることになりました。
手術で膵臓の半分(体尾部)を切除し、脾臓、胆のうを摘出、リンパ節郭清を行いました。みぞおちからへそ下まで開腹した傷口の痛みは術後一年近く経った今もうずきます。
実はそれより5年前には原発性アルドステロン症というホルモンの疾患で、腫瘍ができた左副腎を摘出しています。
いってみれば、私のお腹は空っぽ状態。
文字通り
“空っぽオヤジ”です。
再発・転移の不安がよぎるこれから先のことを考えると、のんびりともしていられない。
契約更新の62才まで待っていられません。
会社を辞めて、不退転の気持ちで長年の夢にチャレンジできるのは体力・気力がある今しかないと思いました。
幸い体調は罹患前と変わらないほどに回復しており、足腰もカミさんとの毎週ウォーキングで問題はなさそうです。
あとは、あきらめずに歩き続けることへの執着とモチベーションを維持することでしょうか。
少年のころに漠然と思い描いた夢を、自分が“生きた証”として記憶に残すという、自分なりのこだわり。
機は熟しました。
齢61才。
コロナという敵と共存しながら、広げた大風呂敷が嘘で終わらないように、有言実行の旅に出ます。

※3月の出発時に作成した“幻の計画書”
メインサイト『
琺瑯看板探検隊が行く』もどうぞご覧ください★
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