結願後、その足で高松から高速バスを乗り継ぎ、大阪難波のホテルに投宿。
チェックすると、左右の足にマメが6個もできていた。
右足はかなり腫れており、じっとしていもジンジンする痛みがある。
こんな状態で高野山に行けるのだろうか?
いったん帰宅して、それから出直してもいいかな?
弱気の自分が情けなくなったが、それを押し殺して、どんな状態でも行くことに決める。
翌日、3090円の【高野山フリーきっぷ】を購入し、早朝6時の南海電車高野山行の急行に乗った。
ホテルから駅までの1㎞は、足を引きずるようにして歩いた。
極楽橋駅からケーブルカー、更に高野山駅からバスを乗り継ぎ、一の橋口で下車したのは8時30分だった。
弘法大師が眠る奥の院御廟までは、ここから2㎞の歩きである。
ここ数日の天気が嘘のように晴れ、願ってもない青空である。
白衣に着替え、金剛杖を持つお遍路のスタイルに変身。
同じバスで下車した人の中にもお遍路さんが一人いたが、残りの多くは外国人観光客だった。
戦国武将や有名企業のお墓が並ぶ参道をゆっくりと歩く。
スギの大木の間を縫うように石畳の参道が続いた。
中の橋を渡ると、奥の院はそのどん詰まりにあった。
ここからは撮影禁止となり、脱帽ということで、お遍路のあいだずっと被り続けていた野球帽をザックに入れた。
奥の院御廟で88ヶ所を無事に回ったことを、お大師様に南無大師遍照金剛と唱えて静かに報告した。
これで私のお遍路が終わった。
清々しい気持ちと達成感。
もう一つは、これで終わってしまったんだという、ちょっとした脱力感。
自分は何かを残すことができただろうか。
無我夢中で歩いた日々を振り返ってみても、答えは出ない。
複雑に混ざったそんな気持ちを胸に、御廟を後にした。
納経所で納経帳を差し出すと、係の年配の男性が白衣と金剛杖、ザックを背負った姿を見て、
「歩かれたんですね。大変だったでしょう。これで満願ですね。おめでとうございます」
という言葉をかけてくれた。
優しい労わりの言葉がずしんと響き、胸が熱くなるのを感じた。
その瞬間、あぁ、終わったんだなぁ…と、吹っ切れた。
奥の院を出て、金剛峰寺を参拝し、往路を戻り、その日のうちに岐阜の自宅に帰還した。
40日間を共にした杖と白衣は持ち帰った。
再び袖を通し、杖の鈴を鳴らすことがあるのかどうかは分からない。
お大師様に呼ばれたとき、今よりも成長した姿で四国の土を踏むことができるだろうか。
はたして、その日が来るのか。
静かに、待ちたいと思う。
■2023年6月1日 大阪府大阪市~和歌山県高野山町→帰宅
■晴れのち曇り

※極楽橋駅からケーブルカーに乗り継ぎ、高野山に向かう

※一の橋口でバスを下車し、歩き始める

※同上

※一の橋から奥の院へ向かう

※同上

※御廟へ続く参道

※同上

※同上

※覗き見の井戸があった

※戦国武将のお墓が並ぶ参道。画像は徳川家墓所

※奥の院参拝を終え、納経所に立ち寄った

※古い建物が軒を並べる高野山町中心部

※金剛峰寺山門

※金剛峰寺本堂

※同上

※同、全国一の規模を誇る石庭

※同上
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